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青高の元イケメン 【外山直璋 記、文責:齊藤 繁】

 

  今や、くたびれたような4人組だが、55年前はイケメンという言葉はなかったけれど、まぁまぁの男の子であった(と思う)。
  4人は1年1組、担任は化学の住谷先生だった。仲良くなったのは、1年生にも拘らずすぐに剣道部(当初は同好会だったかな)を創設した萱原が声をかけたのがきっかけだった。出身中学校は齊藤が外苑中、萱原が目黒一中、瀧本が目黒九中、外山が正則中ということが示すように、全くの初対面同士だが妙にウマが合った。外山は数学が抜群で、何やら難しい数式を解いて一人で悦にひたっていた。瀧本は奇想天外なことをよく言い出していた。あるとき「ヨットを作ろう」と3人に持ちかけた。「⁃⁃⁃⁃⁃⁃⁃⁃⁃。」3人の無言の回答だ。
  部活は、齊藤・瀧本がくまんばち、外山はJRC(青少年赤十字)、萱原は剣道部とそれぞれが中心メンバーで活躍していた。 
 2年生の修学旅行では、齊藤の発案で体調不良を各自が申告して、瀧本、外山、齊藤に今泉(なぜか萱原は修学旅行に参加)の4人で日光に一泊旅行をした。
 一時期、交流が途絶えていたこともあったが、最近は飲み会を定期的にやっている。萱原・齊藤は自営業、瀧本は利根川の河原でラジコン飛行機を飛ばすことに明け暮れ、外山は運動オンチだったが、愛息のためにサッカーの審判員のライセンスを取って走り回っていたり、定年後は年がら年中ヨーロッパの田舎を訪ねている。
 旧1年1組は「元美女軍団」もいるから、来年クラス会でも呼びかけようか。 
(写真左から齊藤 繁、萱原 惇、外山直璋、瀧本征彦)

バイク仲間 【飯川 毅 記】

 

写真右から
  3548  和仁 征一郎
  3650  渡辺 栄一
  3224  諏訪 右
  3539  濱田 保夫
  3503  飯川 毅

 高校生の頃からバイク(その当時は原付バイクですが)に乗り始めた面々ですが、発展途上の日本ではまだまだ珍しい状況でしたので学校側は禁止するどころか各行事などに便利に利用されておりました。
 この4人は暴走行為などする事無く綱島に住む和仁君の家を経由して横浜の山下公園まで走って帰ったと誰かがつぶやいていました。その他あらゆる遠地に行ったので憶えておりません。
 ご存じ多才な素質を持つ渡辺君が、古希に近づいたまさに70歳のロマンに目覚め、大型二輪の免許を取得し、ホンダNC700Xに乗り、TV番組に取り上げられる(※)、スーパー老人ライダーが登場しました。
 これからでも参入したい方どうぞみんなでツーリングでもしましょう。

 ※ 2013年5月28日 フジTV 小倉智明の番組で放映された。インターネットで"Watanabe NC700X Motorcycle" を検索するとYouTubedeに短縮版(31秒にカット)があります。

エルビス4人組 【上田邦彦 記】

 

 我々は焼け跡の中で物心が付いて、バッテンボーのリズムを聴いて育ち、中学、高校はエルビス・プレスリーにかぶれ、毎土曜の夜はFENのトップ10を聞いて海の向こうの流行を探っていた。大学に入るとビートルズである。
 写真左から、大沢は高校で出合った頃はちびであったが見る見る背が伸びた。よく帰りに国立競技場の室内プールへ行ったが、教えていたつもりだったがいつの間にか追いつかなくなってしまった。横浜市大、電通そして独立しても広告業界にいて、今は専門学校でコミュニケーション学を教えている。カラオケはもっぱら60年代を得意にしている。
 香川大は高校のすぐ裏に小川が流れていて川の前に自宅があった。東京オリンピックの整備で三鷹台に引っ越した。川は跡形もない。慶応、日本ゼオンと進み、リタイヤー後一念発起してギターを習い始め幼友達と共におじさんバンドを組み、前回の同期会で披露したように、ほとんどプレスリーを歌い演奏している。
 曽我部和彦は中目黒のマンションに住み、今はおしゃれな街で名を売っているが、そのころはただ殺風景な山手通りを歩いて通っていた。慶応を出て長瀬産業では化粧品販売の指揮を執り、退職後は早稲田のエクステンションスクールに通い、中世の歴史を勉強している。
 上田邦彦は信濃町駅から絵画館前、神宮球場横を通って通学したが、最近外苑を歩いてみると柵や施設が色々出来て学校への近道は通れなくなっている。自宅裏の理科大を出たが親が神楽坂で洋品店を経営していたので跡を継いでしまったが、ほとんど女房に任せ、PTAや商店会などでお茶を濁していた。私だけが上着を着ているが何を隠そう年々出てくる腹を隠しています。

「シングル」になった私たち

 

 同期会で「軽いのり」でついつい写してもらっちゃいました。昔流でいえば未亡人ですが、今は「シングル」と言われています。
 夫と死別した時期はそれぞれ違うのでしょうが、家族環境は共通点があるのかもしれません。
中高年女性に人気のある綾小路きみまろ風に言わせると「あなたぁ、何で私をおいて逝ってしまったのぉ。私もすぐに追いかけて行くからね。」と語りかけて数ヶ月。「お父さん、すぐに行こうと思ったけど、孫の成長を見守らないといけないし、お父さんの分まで生きることにしたわ。」(あれから○○年――ですかね)。
 当日出席された方の中には、男女を問わず配偶者を亡くされた方が他にもいらっしゃったことでしょう。大きな声で呼びかけるわけにはいかないので、たまたま席の近かった4人で撮った次第でした。「今はしあわせです。」
 左から瀬戸口(重松)、力武(星)、鈴木(鳥羽)、大塚(岡本)の諸嬢
 (文責:くまんばちの某大物記者)

2年4組“華の五人娘” 【大木節子 記】

 

 “白波5人男”の向こうを張って(写真のアングルが凝りすぎてますが)、勢揃いした、2年4組“華の五人娘”。(左から、窪田(村上)、川崎(向坂)、椎名(岸本)、大木、小森谷(山越)=旧姓が前)
 何といっても目立つのが、大柄の小森谷。美人と評判だったが、のっぽすぎて、文化祭最大のイベント=フォークダンスが大の苦手。“男子のパートをやったほうが”と本気で思ったとか。   
 次にこれも美人と誉れの高かった、途中入学の椎名。真保先生の後からおずおずと教室に入ってきた姿が印象的。成績優秀なわりには、失敗談のつきないうっかり屋だったとか。
 3人目が“かわいい”といわれた窪田。ちょこまかしてマイペースな表面はポーカーフェイス。ホントは理系の頭脳の持主で、ノートにさらさらと化学式を書いたのには驚かされたとか。
 (3人は仲良組で、今でも男子と“羊群”とかいう怪しいグループ活動を続けているらしい)。
 これも“かわいい”と評された川崎は独立系。ほんわか癒し系の裏には、隠された一面も。
 “高校の思い出はいろいろあるような、ないような”と意味深な発言。一体何があったのか!
 さて、“どん尻に控えし”は、明るい精力的な印象(なんで美人じゃないんだ)との甘言もある、唯一独身の大木。済ました顔して、学業、テニス、詩作、フォークダンスと全てこなしたちゃっかり屋。遅刻しそうなときは、外苑を対角線上に走って“セーフ”だったとか!
 小森谷がピアノを弾いた文化祭、大木が(他のみんなも)活躍して優勝したクラス対抗バレー大会、東福寺を有名にした修学旅行企画、つきない思い出はいろいろあったようだけど、いまの顔、顔はそれなりに経験豊富で神妙なオバサン(いや、お姉さん)。でも、その裏には何があるかわかりませんよ。これからの人生も“乞う、ご期待!”

旧1年1組美女(?)軍団 【川村直子 記】

 

 不安な気持ちで、初めて入った1年1組で席が近かった5人に、それぞれのクラブで知り合った友人が仲間入り、勝又先生引率の元に行った男女混合の大瀬崎キャンプ、授業をエスケープしての美術館行き、慶応病院に入院中の石原裕次郎さんとの記念写真等を通して、いつの間にか強い結びつきができました。
 写真右から、誰よりも青高を愛する博識の人エッちゃん(松田)、常に冷静沈着な山内さん(藤森)、若い時から続ける琴の演奏でボランティア活動を続けるオシゲ(瀬戸口)、25年間のアメリカ生活を終えて帰国したオカチン(横山)、故郷香川に帰って卓球の試合で日本中を飛び回るカワキミ(会見)、8年間のブラジル生活で習い覚えたアルパの演奏で
活躍のアコチン(小林)、興味の赴くまま気楽な人生を送る(オクチャン(川村)、劇団民芸での活動を続けるオニコ(鬼沢)、画家として第二の人生をはじめたトンボ(田部今回欠席)
 それぞれ何かのハンデを抱えながら、事あるごとに声をかけ、年に一度は集まりを持ち続けた仲間、なかなか全員が顔を合わせることはできませんが、今でも顔を合わせると青高生に戻ります。

渋谷区立鉢山中学OB 【身崎陽之介 記】

 

 渋谷区立鉢山中学から青高に送り込んだのは11人。今回出席者は206大賀吉郎、343宮河昭夫、351石崎斯征、642身崎陽之介、831種倉紀昭の5名。
渋谷区の縄文、弥生時代の鶯谷遺跡で知られる鶯谷町にある鉢山中学。鉢山の名は隣の町名から取ったものです。なぜ隣の町名を学校の名前としているか。終戦間もない昭和22年、鉢山町内の都立一商の中に間借りして設立したためで、その時点で学校を建てる場所も未定で鉢山町内にも候補地があったためです。結局他の候補地であった鶯谷町に建てることに決定。将来的に隣の寺の土地を区が買って校庭を広くするつもりが、寺の檀家たちが反対してその土地を一坪地主として買ってしまい、以来校庭は狭いままで現在に至っています。というわけで我々が入学した時点で創立9周年という若い学校です。校章の意匠も一商のものに似ているのは兄弟校の意識もあったとか。
 27年には原因不明の火災に教室を焼失、ちょうど居合わせた教諭が一人でピアノを運んだという武勇伝まで生まれました。その火災により再び間借り授業や、寺の空き地に仮校舎を建てさせてもらってしのいだそうです。我々が入学したのは校舎が再建されて間もない頃だったわけですが、あまり新築校舎だったという記憶がありません。そういえば青高も新築校舎だったですね。
 前回同期会が終わった後メールのやりとりをして中学時代のことも思い出し、中学-青高と6年間一緒だった者で記念写真を撮っておけば良かったと思いました。

卓球部の面々 【岡野光雄 記】

 

 私の思い出す範囲でのメンバー(五十音順)は以下のとおりですが、忘れている人がいればごめんなさい。また、実行委員長より「結束堅い卓球部」と表されましたが、卒業後みんなで集まったのは10年ほど前に一回だけだけで、そのほかではOB会(還暦をすぎて参加資格が出来る)で会う程度です・・・
  <本日の参加者> 石鍋 謙一(写真の時どこかへ行って居なかった)、 川崎  昂 、山本 健介、藤森(旧姓山内)聿子、村上(旧姓窪田)公子、濱田 保夫、岡野 光雄、丹羽 一男
  <欠席者> 安藤 守人、鏑木  聡 、高橋 ゆかり、恒川 量子、束野耕一郎
 昭和34年4月10日、天皇陛下がご成婚され皇居から渋谷区常磐松の東宮仮御所までの馬車列を当時都電の走っていた青山通りでお迎えさせて頂いた私たち(私だけかな?)が青高に入学し、卓球部に入ったときの思い出を綴ってみました。
  練習は新築間もない体育館で行われ、週の内3日は体育館のフロアーの半分(体操部と半々)を使った練習、後の3日は体育館中二階のロビー(当時我々はそう呼んでいた)での練習で四六時中球が体育館のフロアーへ落ち、バレー部やバスケット部の練習をじゃましていたとの思いがあります。
  練習前のトレーニングは神宮外苑の周回道路や原宿駅の方までのランニング、屋上でのウサギ跳び往復、素振りやフットワークなど結構きついのをやり、苦しい中で仲間意識が高まってきたような気がします。
 当時の面々の個性やエピソードに触れてみます。
 * 川崎、藤森の2人は中学の頃から世田谷区の強豪として有名で青高では物足らないようでした。川崎は始めから親父っぽかったほか、人をからかうのが好きでふざけ半分に同期の人を利き手ではない左手で簡単にやっつけ、以降部活に来なくなった人も少なからずいました。
 *  2学区内の都立高校との試合をマネージャーとしてプロデュースした束野は目立った動きをしないのだが、どこで調べるのか連絡先をきちんと調べ、企画してくれました。(10試合ほど対抗戦をやりましたが青高は結構強く殆ど負けたことがないと記憶している)
 その他の、本日参加している面々一人ずつのことに少しずつ触れると
 * 石鍋は、山岳部が忙しいようで卓球部には殆どいなかった。
 * 丹羽は川崎に左手で負けた人で以降軟式野球に力を入れていた。
 * 濱田はバイクや喫煙に忙しく練習には殆ど出てこない方だった。
 *  山本はラグビー部との掛け持ちで練習には熱心ではないが練習後の雑談の中、自殺の是非論などユニークな考えを展開していた。
 *  藤森は先ほど触れたとおり強かったので青高の練習は気休め程度ではなかったではないか(部活の放棄はしなかった)。
 半分くらいの人は比較的早い時期に部活に出てこなくなり最後まで残ったのは川崎、束野、藤森、安藤、鏑木、恒川、岡野の7人くらいで、先ほども触れたが最初から親父っぽかった川崎、お茶目な安藤、格好付けの鏑木、内面に格闘精神を持った束野など思い出は尽きません。 

ランニング仲間 【渡辺榮一 記】

 

 同期会の幹事が集まった時のこと。大沢君から、僕の膝が治って走れるようになったらランニングでお前に勝ちたい、イヤ勝つぞ、という挑戦状をもらった。彼流の励まし方。嬉しかった。飯川君は、青高の陸上部を作ったのは俺だと自ら名乗り、僕が膝を痛めると、彼自身の膝の苦労体験を語る。相通じる話題で話しかけ、励ましてくれる。身崎君は、今も週に6日、毎回6-7㌔ジム内でミル上を走る。僕が担当している青高同期会のHPについて何かと気にかけてくれる。齋藤君が陸上部だったとはにわかに信じがたいが、言わずと知れた同期会の名幹事長。気配り名人。同期会があったからこそ付き合えたそんなイイ奴らと記念写真が一枚くらいあってもいいだろう、と思った。
・飯川 毅(3503)
  陸上部創立者
・齊藤 繁(3420)
  陸上部の創立メンバー
・大沢達男(3809)
  CMの撮影で訪れた日本と世界の諸都市での早朝ランニングが自慢
・身崎陽之介(3642)
  50歳近くから走り始めた。フルマラソン4回。
  ウルトラマラソン1回を制限時間内に完走したことが自慢
・渡辺榮一(3650)
  青高の体育祭、マラソン大会などの長距離で3年間通して無敗だったことが自慢

 ところで、青高の陸上部については、実のところ、あまり知られていないようだ。その状況は我々が通っていた当時の青高の一面を反映していると思う。そこで、以下では、陸上部創設に関わった飯川君はじめ関係者の証言をまとめてみた。
◎学校側の承認は得られたけれど継子扱い
 1)陸上部が出来ても、それをフォローする先生がいない(運動部の基本中の基本である陸上競技に対して意欲も○○も無い人たち)
 2)グランドも使わせない
 3)部室も無い
 4)当然ながら予算も付けられない
それでも良かったら隅っこで勝手にやりなさい、というものだった。
◎神宮の森の中で淋しく活動していた
 普段の練習は表に出て絵画館前やら神宮球場の周りで数名で人知れず淋しく活動していた。先生方の協力が無いため、飯川君は、自分が出た中学(駒沢中学)へ出向き、体育の先生に柔軟体操やら練習のやり方等を教えてもらった。親切丁寧に指導や励ましの言葉を頂いたことを今でも忘れない。3年生の先輩(生徒会長)が聞きつけて、一緒に指導してくれたこともあった。
◎能力があってもモチベーション上がらず
 そんな環境の中で陸上部としての活動を続けることは難しかった。先生がいないため、大会に参加する資格が無く、能力があっても目標やらモチベーションも上がらず、だんだん嫌になっていったという。
 飯川君の記憶では、何校かの都立高校が玉川高校に集まって行なわれた、都立高校対抗の駅伝大会(多摩川土手堤登戸方面一周)に参加したことがあった。彼は自分より速い人を選んだ結果、オートバイで伴走して励ましたり応援をした。オートバイに乗り始めたのは2年生の途中から。通学にも使っていたため、脚が弱り、やがて活動そのものが自然消滅し、部員は皆勉強へ戻って行った。
◎一生忘れない事実
 そんな高校生活を送っていた飯川君は、元来走る事は大好き。こんなことがあったという。1年生の時、体育の時間に、絵画館前の一周1200メートル程を、数人づつ7・8グループに分けてリレーをやった。飯川君は2番走者だった。1番走者が最下位でトップより100メートル以上も離されてバトンを受けた。しかし、彼は全員をごぼう抜きにしたのだ。そうなれば余計アドレナリンが湧いてきて、更に引き離し、3番走者につなぎ、アンカーまでトップを維持して、彼のチームは優勝した。
 これは、飯川君にとって一生忘れることのない事実であり、今でも時々思い出すという。自分の自慢話などは決してしない彼が、このことを初めて明かしてくれた。

© 2015 Eiichi Watanabe

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